ジェイと私は、ハーグのある酒場でビールを飲んでいる。ジェイは昨日アムステルダムに着いてからというもの、どうしてもマリファナを一本だけ吸ってみたいと、ずっと私にせがんでいる。私だってまったく興味がないわけではないが、正直なところ勇気が出ない。だからといって、私が臆病者だという話ではない。私が怖れているのは、マリファナが韓国では違法だとか、韓国の法律が属人主義を採っているとか、そういう原則的な問題ではない。何といってもマリファナは麻薬だ。そこが問題なのだ。私は体に悪いものには簡単に依存してしまうタイプの人間だ。だから一度はまったら抜け出すのが難しいことをよく知っている。「こんなもの、一度くらいやってみるか!」そんな調子で手を出して、やめられなくなったものがあまりにも多い。もう崖っぷちまで追い詰められた落伍者の人生なのに、ここへ麻薬中毒者という札まで付け加える余裕はない。
ジェイは少し前、長くて退屈な離婚訴訟を終えた。最初は協議離婚をするつもりだったのだが、財産分与の問題でやむを得ず裁判にまでなり、最後の最後でどうにか和解にこぎつけた。離婚したあとも夫とはいい友達でいようというジェイの期待は、見事に打ち砕かれた。そもそもそんな期待を持つべきではなかった。もし女の問題だけだったら、離婚にまでは至らなかったかもしれない。若い女なんかと別所帯を構えたというのでなければ、「男なんてそんなこともあるさ」と太っ腹に流すことだってできた。実際、ジェイの夫に女の問題がまったくなかったわけでもない。高校時代の同級生たちとゴルフに行って帰ってくる日は、夫から妙な匂いがすることにジェイは気づいていた。最初はゴルフ場のクラブハウスに置いてある安物のローションや化粧水の匂いだと思っていた。だが、そうではなかった。ある日、家政婦が父親の喪中で数日休み、洗濯物がたまっていた。ジェイは洗濯機を回そうと衣類を分けていて、たまたま夫のパンツにくっついている長い金髪を見つけた。その晩、夫と大げんかをしたジェイは私に電話をかけてきた。そして、こう言った。
「だらしない野郎。そんなの、なんでバレるのよ?」
一度疑い始めると、ジェイの性格ではもう何も信じられなかった。夫が酒を飲んで帰ってきた日には、ジェイはパンツを検査した。夫がパンツを脱がないと意地を張ると、「あんた、この野郎、どこで誰とやってきたの?」と問い詰めた。そして夫の実家に知らせると言って受話器を取った。そのたびに夫は膝をつき、両手を合わせて何度も何度も謝った。
ジェイが離婚を決意した決定的な出来事は、夫の隠し撮りだった。去年の冬、ジェイが電話で愚痴をこぼした。
「あの狂った野郎、私とやってるところを全部撮ってたのよ。それだけじゃない。ほかの女とやってるのまであるの」
毎晩、夫が書斎に入ると内側から鍵をかけるのが気になって、ある日ジェイは夫のコンピューターを隅から隅まで調べた。コンピューターからは何も見つからなかった。几帳面な夫の性格を知っているジェイは、書斎の本を一冊ずつ調べていき、隠してあった小型ノートパソコンを一台見つけた。最初は、「この人、毎晩私に隠れてポルノでも見てるの?」と鼻で笑ったそうだが、そうではなかった。
「離婚するの?」
「うん……。いや、分かんない。どうしたらいい? やっぱり離婚するしかないよね?」
ジェイはいろいろなところで不器用だった。あるときはてきぱきしているのに、あるときは馬鹿みたいだった。離婚しようと決めると、娘がいちばんの厄介事になった。ジェイには子どもを育てられるだけの能力がなかったし、仮にその能力があったとしても育てる気はなかった。娘はいつだって父親の味方だった。
「それはあとで考えろ。とりあえずコピーしておけ」
「どうやるの?」
「知らないの? じゃあ今すぐノートパソコン持って、俺のカフェに来い」
「なんでそこに?」
「コピーの仕方が分からないんだろ。ぐずぐずしてないで、今すぐ来い」
私はジェイに、うちの犬のモンイの命にかけて、バックアップした動画を絶対に見ないと誓った。おかしなことに、私は自分を信用していないし、妻も私を信用していないし、両親も私を信用していないのに、ジェイだけはいつも私の言うことをよく信じてくれた。その晩、ジェイと夫のあいだで交わされた口にするのもはばかられる暴言の数々、ゴルフクラブで粉々にされたノートパソコン、近所の通報で駆けつけた警察官たちの前で繰り広げられた喧嘩などについては何も言わないことにする。重要なのは、私がバックアップしておいた動画のせいで、結局ジェイの夫の実家が和解に応じざるを得なかったという事実だ。刑務所よりは和解のほうがましではないか。
夫の実家が子どもを手放さないと分かっていたジェイは、むしろ親権をいっそう強く主張した。夫が娘を引き取る代わりに、ジェイはたっぷり慰謝料をせしめた。金浦新都市にある広いマンションと、四階建ての商業ビルを手に入れた。周囲の連中はみんな、大当たりだと羨ましがったが、私はそうは思わなかった。ジェイは流刑地へ追いやられて、流刑生活を送っているように見えた。いつだったか、酔ったジェイが「むしろよかった。もう何の未練もない。家に帰って誰もいないって、どれだけ気楽か分からないよ」と言ったとき、私はそれが本心ではなく強がりだと思った。酒が入ると、ジェイは口に出す前に考えなかった。だから酔いが醒めると、自分が何を言ったのか覚えていなかった。いや、そもそも覚えようともしなかった。もちろん、昔からそうだったわけではない。むしろそうだったのは私のほうだ。
実を言えば、私の結婚生活も終わる寸前だ。もちろんジェイのせいではない。妻は私とジェイの関係にはたいして関心がない。たぶん「ふん、あなたごときが?」とでも思っているのだろう。女の問題でないなら、理由は決まっているではないか。私の場合も、誰もがそうであるように、金だ。何をやっても失敗する私にもう耐えられないと言って、妻は離婚を求めた。カラオケ、PCバン、カフェと、手を出すものすべてたいした成果は出なかった。カフェだけは権利金を少しでも受け取って、世間知らずの女に引き渡せたからよかったものの、本当にすっからかんになるところだった。就職でもできればいいのだが、行くところがなかった。コンビニの夜勤アルバイトも考えてみたが、体力の問題もあってやめた。それは本当に最悪の場合に考えることだった。まだそこまでではなかった。
そして何より、私は妻と別れたくなかった。妻が離婚の話を切り出したとき、私はきっかり三か月だけ別居して、それでも気持ちが変わらなければ潔く身を引くからと頼み込んだ。結局、妻は同意した。残った問題は、どちらが外で暮らすかだった。妻は自分が実家で暮らすと言った。私は、どうか実家には私たちが別居していることを知らせないでくれと、もう一度頼み込んだ。すると妻は、「あなたは自分の実家の人たちとは縁を切ってるから、行くところもないでしょう?」と言った。私は、このマンションは君の名義なんだから、私が出て暮らすのが当然だと言い張った。そして大急ぎで荷物をまとめて外へ出た。荷物といっても、洗面道具と下着が数枚だけだった。私はマンションの入口でタバコを一本吸った。どうも妻の作戦にはめられたような気がした。こんな事態を前もって想定できず、無防備なところへカウンターパンチを食らった気分だった。これからはもう少し緻密に動こうと心の中で誓った。
タバコを一本吸い終え、もう一本を口にくわえながら、私はジェイに電話をかけた。嘘はつかない。正直に言えば、ジェイには私に借りがあることだし、三か月のあいだジェイの家に居候するつもりだった。ホテルで三か月過ごすには、財布の中の金では無理だった。だからといって安いモーテルに泊まることなどできない。野宿したほうがまだましだ。モーテルだなんて。汚れたシーツ、隣の部屋から聞こえる喘ぎ声、安物の冷蔵庫のファンが回る音、歓楽街のネオンサイン、酔っ払いたちの怒鳴り声。考えただけでも本当にぞっとする。
「タクシーで今すぐ来な」
「本当に?」
「ねえ、あんた声どうしたの?」
「タバコの煙が目に入ったみたいだ」
「タクシー代は?」
「カフェを畳んだときにへそくっておいた非常用の金がまだ残ってる」
別居初日から丸二か月、私はジェイの家で一部屋を借りて暮らした。ジェイが私にどれほど大きな借りがあるとはいえ、ただ飯を食うわけにはいかなかった。そこでせめて食費分くらいは働こうと思い、朝起きるとすぐ買い物に行った。そしてトースト二枚、ゆで卵一個、リンゴ半分、パプリカ四分の一、モーニングコーヒーを用意してからジェイを起こした。ジェイは、朝食なんていつ以来か分からないと言いながら、目に涙をいっぱい浮かべた。私たちの朝食は日常になった。私は皿洗いと家の掃除も担当した。もちろん食器洗い機とロボット掃除機の助けは借りた。ジェイは洗濯だけは各自でやろうと言ったが、同じ家で暮らしてる者同士なのに、何が問題なんだと言って、私は週に一度洗濯機を回した。そうしているうち、ふと、どうして私は自分の家ではもっと早くこういうことをしなかったのだろうと疑問に思った。妻があれほど家事を手伝ってくれと言っていたのに、なぜ毎回知らん顔をして逃げていたのか、まるで理解できなかった。食器洗い機とロボット掃除機さえあれば、何ひとつ難しくないのに。私は妻に電話をして、これからは家事を全部私がやると言いたくなった。そうすれば妻も私への怒りを解いて、また一緒に暮らそうと言ってくれるような気がした。だが、妻の考えは違ったらしい。妻は変わった私の姿など見たくなかった。その代わり、書類を用意したから家には来ず、家の近くのカフェで会おうと言った。本当に私は、ジェイのように離婚だの離婚訴訟だのというものを夢にさえ見たくなかった。なぜなら私は今でも妻を愛しているからだ。
私は約束の場所へ行かなかった。妻は電話をかけてきて、ひどく私を責めた。そしてもう一度約束を決めたが、やはり行かなかった。そして妻から逃げてしまった。少し無責任に見えるかもしれないが、ほかにもっといい方法が思いつかなかった。二度目の約束をすっぽかした夜、ジェイとテレビでヨーロッパ旅行番組を見ていたら、ジェイが死ぬ前に一度パリを見てみたいと言った。私は「じゃあ俺と行こう」と威勢よく言ってしまった。そのとき私は少し酔っていた。ジェイもかなり酔っていた。翌日、私がどう考えても今は時期がよくないから、今度必ず一緒にパリへ行こうと言うと、ジェイはそんなの絶対にだめだ、それなら今すぐこの家から出ていけと無茶を言った。結局、ジェイには勝てなかった。とりあえず離婚問題はヨーロッパ旅行のあとで考えることにした。大事を控えて、余計な悩みを心に抱えておく必要があるだろうか。オフシーズンだったからなのか、パリ行きの航空券二枚は簡単に取れた。宿はパリに着いてからオペラ座の近くで適当なホテルを探すことにした。ジェイは航空券の予約が終わるやいなや、ヨーロッパで着る服を買うと言ってショッピングに出かけた。
仁川空港で出国手続きをしていると、妻から電話がかかってきた。私は出なかった。免税店でタバコを買っていると、また電話が鳴ったが、やはり出なかった。そして携帯電話の電源を切ってしまった。妻は相当怒っただろう。妻は、私のこういう態度には耐えられないと言って、結婚生活のあいだ何度となく腹を立ててきた。とはいえ私の立場から、妻に何と言えるだろう。君と離婚できないから女友達とパリへ逃げるんだ、とでも? 頭がおかしいと言われるに決まっている。だが私の事情を知れば、誰も私を責めることはできないはずだ。第一、妻は三か月別居すると約束しておきながら、わずか二か月で離婚届を突きつけようとした。これは明白な契約違反である。第二、妻は私が家を出ていた二か月間、一度として先に安否を尋ねる電話をしてこなかった。いくら憎いからといって、玉のように大切な亭主をあまりにも粗末に扱っているように思う。第三、これはジェイの私生活と密接に関係することなので本当は言いたくないのだが、仕方がないから明かすことにする。実を言えば、私はこの二か月間、ジェイとは一度も関係を持っていない。もちろん、それ以前にもない。もっと正確に言えば、私はこれまで一度だってジェイの手首すら握ったことがない。私たちは本当に純粋な友人関係にすぎない。世の俗物どもには絶対に理解できないプラトニック・ラブというやつだ。この三つを見るだけでも、私はそれほど悪い男ではない。突き詰めて考えれば、私たちはみんな罪人ではないか。私が空港で電話に出なかったことだって、結局は妻の自業自得である。急に胸のつかえが全部取れたような気分になった。早くパリに着いてほしかった。
私は以前、一度パリへ来たことがあった。大学時代、みんなと同じようにパリ、ロンドン、ローマなどヨーロッパのいくつかの都市を十五日ほど回った。もちろん一人旅ではなかった。当然、旅行会社のパッケージツアーだった。当時も今も、一人で外国へ行くというのはどうも気が進まない。言葉も通じないところで足首でも捻ったり、腹でも壊したりしたらどうするのか。病院へ行けばいいって? まあいい。そこは病院へ行けば解決するとしよう。だが、もしローマの地下鉄でスリに全財産を盗まれたり、パリの裏通りで強盗にでも遭ったらどうするというのだ。本当に、こんなことは考えたくもない。人は私を、男のくせに度胸がないと罵るかもしれない。だが構わない。私はもともとそういう男だ。私が怖いのはスリや強盗そのものではなく、そのせいで起きる面倒なことなのだ。面倒なのは大嫌いだ。
何か大げさな旅行計画を立ててパリへ来たわけではなかった。ジェイと私はほかの人たちと同じようにエッフェル塔に上り、凱旋門を眺めながらシャンゼリゼ通りを歩いた。旅行ガイドに載っている教会にも何か所か立ち寄った。教会はどれだけ見ても教会にすぎなかった。韓国の寺がいくら見事だといっても寺にすぎないのと同じだ。私たちはオープンカフェで濃いエスプレッソを飲みながら、格好よくタバコを吸った。散歩をしていて小腹が空けば、洒落たパン屋に入り、香りのいいフランスパンも腹いっぱい食べた。あんパンだと思って買ったパンにチョコレートがたっぷり入っていて、しばらく気分を害したこともあったが、だいたい楽しい日々が続いた。パリへ来ると、生活が活動的になった。私たちは毎日歩きに歩いた。私はあまりにも長いあいだじっとしていた。妻の収入だけで食べていくのに大きな支障がなかったからかもしれない。人並みに会社勤めでも我慢して続けていれば、こんなことにはならなかっただろうに。私は「会社」という言葉を聞いただけで、体が生まれつき拒絶反応を起こす、ごく普通の体質なのだ。不幸なことに商売の見る目も手腕もないので、もうやることがない。何もしないことが手伝いになるという妻の言葉も、考えようによっては間違ってはいない。正直、他人のせいにしたいとは思わないが、私がこうなったのは決して私だけのせいではない。どうも運が悪かったようだ。
私が責められるようなことをたくさんしてきたのも事実だが、善意から事を始めたという点を見落としてはいけない。たとえばカフェを開いたときだってそうだ。最初は商売がうまくいった。だが数か月後、ほとんどすべてのビルの一階にカフェが入ることになるなど、誰に分かっただろう。名前を全部覚えるのも難しいほど多くの大企業フランチャイズが死に物狂いで押しかけてくるのだから、私にどうすることができただろう。退職者たちが退職金や全財産を丸ごとつぎ込んで飛び込んでくるのに、私のように上品に音楽を聴き、コーヒーを飲みながらのんびり商売をしようとしていた善良な人間が、どうやって太刀打ちできるというのだ。物事がそんなふうに進むと分かっていたなら、最初から始めなかった。大損しなかっただけでも、どれほど幸運だったか分からない。カフェを畳むと、妻はすぐ離婚の話を持ち出した。もう結婚でもなく、別居でもなく、離婚でもない中途半端な私たちの関係は、破局へ向かって走っていた。妻にほかの男でもできていたなら、気が楽だっただろうに、それも違った。その男が妻を幸せにできるのなら、私は簡単に離婚に同意したかもしれない。愛というものも、泡が消えてしまえば気の抜けたビールとたいして変わらない。化粧をして、いい服を着て会っているあいだは何もかもよく見えるが、いざ結婚して日常の中へ入れば、いい感情だって鈍くなるものだ。そうでなければ、歯磨き粉のキャップひとつで離婚などするものか。
妻も分かっているはずだ。この地球上で、私より妻を愛している人間など一人もいないということを。とはいえ私だって、妻にまったく不満がなかったわけではない。私は妻がペンを持つとき、小指を立てるのがどうしても我慢できない。ティーカップを持つときも、必ず小指を立てる。昔はその姿がかわいくて愛らしかったのに、今ではその小指を見るだけで気が狂いそうになる。人が人を好きになるのに理由などないように、嫌いになるのにも理由などない。とにかく私の人生では、思いどおりになったことなど一つもない。やはり運が悪かったのだろう。
ジェイとのパリ旅行は何もかも順調だった。たった一つ問題があったとすれば、寝る場所だった。オペラ座近くのそこそこ立派なホテルには、空室が一つもなかった。中国人団体観光客のせいだった。ルーヴル美術館の向かいにあるホテルに、幸い空室が一つだけ残っていたが、残念ながらツインルームではなかった。街の中心から少し離れた郊外に宿を取るか、それともジェイと同じベッドで寝るか、決めなければならなかった。いっそ民宿かホステルを探したらどうかと私がジェイに聞くと、ジェイは腕を組み、問い詰めるような目でしばらく私を見た。私は気まずくなって、「いや、オフシーズンなのに、暇に旅行してる人間がどうしてこんなに多いんだ」とぶつぶつ言った。
結局パリでは、私がベッドで寝て、ジェイはカーペットの上に布団を敷いて寝た。私は子どものころからベッドでなければ一睡もできない癖があったので、ジェイには申し訳なかったが仕方がなかった。私はジェイに、そうしないで郊外のホテルへ移ろうと何度も言ったが、ジェイは聞かなかった。自分は床で寝ても平気だというのだから、どうしろというのか。私は従うしかない。ひょっとするとジェイは内心、私が隣で一緒に寝ようと言ってくれるのを期待していたのかもしれない。だが、それはいけない。私は同じベッドで寝るほどジェイを愛してはいない。ただ中学生のころから知っている話し相手で、昔からの飲み友達にすぎない。たぶんジェイも私をそんなふうに思っているはずだ。こんなことを言うと、ジェイに女としての魅力がないと思われては困る。実際はその逆だ。ジェイはよくよく見なければ三十代前半くらいにしか見えない。目元にも首にも皺はほとんどない。肌だってその歳にしてはきれいで、首いぼのようなものは目を皿にして探しても一つもない。同じベッドで寝たからといって、必ずしもそういう関係になるわけではないが、それでもソウルにいる妻のことを考えると、どうしてもそんなことはできなかった。あとで妻が、ジェイとパリで何をしていたのかと聞いてきたら、胸を張って答えたかった。ジェイとは何もなかった、と。そうすれば妻は、私をどれほど立派だと思うだろう。考えただけで胸がいっぱいになる。ジェイがベッドの下で寝たのは全部自業自得なのだと思ってしまうと、気持ちがずいぶん軽くなった。
アムステルダムでは寝床の問題がなくて本当に助かった。ここも中国人観光客のせいでどのホテルにも空室がないのは同じだったが、運よく、たった今キャンセルの出たツインルームを一室取ることができた。テラスまでついた立派な部屋だった。私はダブルベッドをジェイに譲り、シングルベッドの上に自分の荷物を広げた。紳士として、このくらいは譲るのが正しいと思った。宿がどれほどよくても、アムステルダムには見るものがたいしてなかった。運河もつまらなかったし、有名だという花市場は花の匂いで頭が痛くなった。ゴッホ美術館は中国人団体観光客のせいで混みすぎて、何ひとつまともに見られなかった。それに、絵なんか見るためにヨーロッパへ来たわけでもない。アンネ・フランクの家は旅行ガイドには必須コースと書いてあったが、行かなかった。ただ足の向くまま散歩して時間を過ごすほうがよかった。ジェイも私と似たような考えだったのか、特にどこへ行こうとは言わなかった。そんななか、本当に偶然見つけたデカルトの家の前で、ジェイに少し知ったかぶりをしたことが、それなりにいい思い出になった。昔テレビで見たドキュメンタリー番組なのだが、そこではデカルトは自分の危険思想的な著作のせいで何十回も引っ越し、生涯隠れるように暮らしたと言っていた。たぶんその家も隠れ家の一つだったのだろう。私はジェイには、その話をテレビで見たのだとは言わなかった。
私は大学を卒業して、ある大企業の入社試験を受けて落ちたことがある。そのとき出た問題の中に、カントの主要著作を三冊書けというものがあった。私は『純粋理性批判』と『実践理性批判』は括弧の中に書いたが、『判断力批判』だけはとうとう空欄のままにしなければならなかった。もちろん、この問題を間違えたせいで、今その大企業の部長だの役員だのという肩書を持てなかったのだとは思っていない。とはいえ、まったく心残りがないわけでもない。あの問題さえ落とさなかったら、私の人生がどう展開していたか誰に分かるだろう。それは誰にも分からない。とにかく、この話を打ち明けたとき、ジェイは「本当に哲学科だったの?」とくすくす笑った。しかもこの事件は、いまだに大学の同級生たちのあいだで伝説のように語り継がれている。今でも「あれ誰だっけ? 『判断力批判』のやつ」と言えば、すぐ私のことを思い出すらしい。
私たちはデカルトの家の前をしばらくうろついたあと、中央駅近くのホテルへ向かった。途中で道を間違え、飾り窓地区とマリファナを売るコーヒーショップの前を通ることになった。通りには鼻を刺すようでいて、どこか香ばしい匂いが漂っていた。
「これ、マリファナの匂いじゃない?」ジェイが言った。
「そうじゃないかな。タバコの匂いじゃないことは確かだ。アムステルダムじゃ、コーヒーショップでマリファナが吸えるらしい」
「私たちも一本吸ってみる?」
「頭おかしいのか? 絶対だめだ」
私が冷たくきっぱり言ったからか、ジェイもそれ以上マリファナの話をしなかった。肌寒かったので、私たちはいったんホテルへ戻って上着を羽織り、それから夕食を食べに出た。パリで味わった舌の贅沢に比べると、アムステルダムにはたいして食べるものがなかった。ただ何もかもが高かった。私たちは適当に食事を済ませ、酒場へ入ってビールを飲んだ。オランダにあんなにたくさんの種類のビールがあるとは初めて知った。種類ごとに一杯ずつ飲もうというジェイの提案に、私はためらうことなく賛成した。真夜中ごろ、私たちはふらふらしながらホテルへ戻り、体も洗わずそのまま寝た。翌日、私は十時を過ぎてようやく起き上がった。頭が割れそうに痛かった。熱いシャワーを浴びて髭を剃ると、少し気分がよくなった。浴室から出ると、ジェイはまだベッドで眠っていた。私はジェイを呼びながら肩を揺すった。返事はなかった。もう一度揺すると、スリップの細い肩紐が肩から滑り落ちた。するとスリップの中に隠れていた、つんと立った乳首が目に入った。私は思わず、ごくりと唾を飲み込んでしまった。
「おい。もう起きろ」
ジェイは頭が痛いから、もう少し放っておいてくれと言った。私はジェイの乳首が見えないよう、そっと布団をかけてホテルのロビーへ下りた。そして中央駅でコーヒーとクロワッサンを買ってからホテルへ戻った。ジェイはシャワーを浴びていた。私はロビーで待っているというメモを残し、静かに部屋を出た。ホテルのロビーの窓際にあるソファに座ってジェイを待っていると、フロントの従業員が日本語で書かれた新聞を差し出した。私は日本人ではないと言った。すると今度は中国語で何か話しかけてきた。私は中国人ではなく韓国人だと言った。彼はばつの悪そうな顔をして、英語で謝った。ジェイがロビーへ歩いて下りてきた。私は少し冷めたコーヒーをジェイに差し出した。
「今日はどこへ行こう?」私が言った。
「チーズとか木靴じゃなければどこでもいい。昨日、花を見に行って失敗したでしょ」
「じゃあ、ハーグはどう?」
「ハーグ?」
「うん。ハーグ」
「イ・ジュン烈士のハーグ?」
「うん。そのハーグ」
「そこに何があるの?」ジェイが目を丸くして言った。
「知らない。でも一度くらい行くべきじゃないか? お前も俺も一応韓国人なんだから」
「じゃあ、行こうか」
ハーグはアムステルダム中央駅から列車で一時間もかからなかった。街は驚くほどきれいだった。鼻を刺すようなマリファナの匂いが漂うアムステルダムとは大違いだった。ジェイと私はハーグ中央駅近くのレストランに入り、軽く昼食を取ってからイ・ジュン烈士記念館へ向かった。ハーグ中央駅から歩いて十分もあれば着く距離だったのに、途中で道に迷ってかなり歩き回った。そのうえ何ともなかった空から突然にわか雨まで降ってきたので、小さな折り畳み傘も買わなければならなかった。私は傘を二本買おうと言ったが、ジェイは一度使って捨てるものにどうして金を無駄にするのかと言って、一本しか買わせなかった。正直、少し腹が立った。それでも私はジェイの言うとおりにした。パリで私にベッドを譲ってくれたことがありがたかったからだ。小さな折り畳み傘でにわか雨を防ぐのは無理があった。ジェイが私に体をくっつけて腕を組んだのに、なぜかジェイのコートだけがびしょ濡れになった。
イ・ジュン烈士記念館には観光客が一人もいなかった。あまりにも厳粛な雰囲気のせいか気が重くなり、私たちは十分で出てしまった。どうも私たちには似合わない場所だと思った。
私たちはハーグの街を歩いた。雨は少し弱くなったが、傘なしで歩くにはまだ雨脚が強かった。通りは静かだった。天気のせいか、かなり歩いても人をほとんど見かけなかった。
「こういうところに住めたらいいな」ジェイが言った。
私は何も答えなかった。妻に申し訳ない気持ちになった。それは今朝、ジェイの乳首を盗み見たからではない。もちろん今こうしてジェイと腕を組み、一つの傘の下を歩いているからでもなかった。私が妻に申し訳なく思ったのは、仁川空港で妻の電話に出ず、携帯電話の電源を切ってしまったからだった。実のところ、この旅行中ずっとそれが心に引っかかっていた。今ごろ妻の怒りもかなり収まっているだろうが、次に会えばまた怒るだろう。怒っている妻の姿は本当に見たくない。妻が下品な言葉を吐くのも聞きたくない。そして何より、私のせいで妻が苦しんでいるということに、私は耐えられない。
ジェイと私はしばらく黙って歩いた。ジェイも何か別のことを考えているのか、少し沈んだ顔をしていた。空までどす黒くて、ますます気が滅入った。
「どこかでビールでも一杯飲む?」私が言った。
「こんな時間から?」
「天気もこんなだし、少しくらい早く飲んでもいいだろ」
「終電、何時?」
「知らない。でも終電がなくなる前にアムステルダムへ戻らないとな」
「じゃあ、軽く一杯だけ飲む?」
ジェイと私はハーグ中央駅近くの酒場へ入った。酒を飲むにはまだ早い時間なのに、店には客がかなりいた。私たちはオランダ産のビールを二杯頼み、ちびちび飲んだ。
「ソウルに帰らなきゃだめかな?」ジェイが両手でビールグラスをこすりながら言った。
「どうして?」
「分かんない。ただ」
「じゃあロンドンへすぐ行かずに、ローマにも寄るか? ミラノとフィレンツェも見てさ。飛行機のチケットは別の日に変えればいいんだから」
「そうする? いや、もう少し慎重に考えよう。早くロンドンへ行って、ミュージカルも一本見たいし」
「そうだな。じゃあ、ゆっくり考えればいい」
「むしろよかった。もう何の未練もない」
「何が?」
「何って、離婚したことよ。別れてみたら、こんなにせいせいするとは思わなかった」
私はジェイの言葉を信じられなかった。明らかに嘘をついていた。本心はそうではないはずだ。ひょっとすると私は妻よりもジェイのことをよく知っているのかもしれない。
「何? 嘘みたい?」
「いや。そうじゃなくて」
「私、すごく変わってみせる。ソウルに戻ったらまた水泳を始めて、フィットネスクラブにも通う。帝王切開の傷さえ消せたら本当にいいんだけど。私のは大きすぎて、完全には消せないんだって」ジェイは真剣な顔で言った。「それでもいい。私、まだ若いし、十分魅力あるでしょ。違う? 素敵な男にも会わなくちゃ。その男とは恋愛するけど、結婚はしない。声楽もまた始める。芸術の殿堂の舞台に、もう一度立てたらどんなにいいだろう」
「でも、さっきはソウルに帰りたくないって言ってなかった?」
「私がいつ? そんなこと言ったことないよ。私はソウルに戻ったら、自分を愛するの。誰よりもね」
「そうだな。お前は愛される資格があるよ。ところで、もう一杯飲む?」
「いいよ。その代わり、本当に一杯だけ」
私はビールを二杯追加で頼んだ。そしてしばらくして、また二杯注文した。酔いが回ってきた。私はソウルへ帰ったら必ず酒をやめようと決心した。もちろんタバコもやめるつもりだ。妻に、私が変わっているところを見せてやるのだ。妻はこんな私を気に入るだろう。いや、ひょっとすると、もう一度私を愛してくれるかもしれない。もう四十代なのに妻に捨てられたら、どうやって生きろというのだ。それは死ぬのと変わらない。妻にはこの事実をはっきり教えてやらなければならない。私にとって離婚とは死そのものなのだ、と。私はビールをさらに二杯注文した。酒とタバコはソウルへ帰ったら必ずやめるつもりだが、今すぐではない。
隣のテーブルにバックパッカーが二人座った。そいつらが動くたびに、鼻を刺すようなマリファナの匂いが漂ってきた。
「どんな気分なんだろう?」ジェイが言った。
「何が? そんな言い方されたって分かるわけないだろ」
「何って。マリファナの匂いしない? あいつらが動くたびに、腐ったサバを食ってした屁みたいな匂いがするじゃない」
「たいしたことないだろ。タバコより少しきついくらいじゃないか」
「私たちもマリファナ一本だけ吸ってみたらだめ?」
「だめだ」
「何がだめなのよ。ここじゃマリファナ売ってないの?」
「マリファナは酒場じゃ売ってない。コーヒーショップでしか売らないんだって。酒を飲みながらマリファナまで吸ったら、ぶっ飛ぶらしいぞ」
「本当? 本当に一本だけ吸ってみようよ」
「だめだ」
「あんた、今朝私の胸、盗み見たでしょ。私が気づかないと思って」
「……」
「ソウルに戻ったら、ミヒョンに全部言いつけてやる」
「……」
「ああ、マリファナ一本だけ吸ったら、誰かに乳首を盗み見られたことも全部忘れられるのになあ」
「じゃあ、本当に一本だけだ」
「うん。一本で十分」
「じゃあアムステルダムへ戻って吸おう。ここで吸って何か面倒なことになったら厄介だから。どうだ?」
「約束破ったら、ミヒョンに全部言うからね」
「分かった。だから頼むからミヒョンの話は出すな」
私たちはすぐにハーグ中央駅へ向かい、アムステルダム行きの列車に乗った。アムステルダム中央駅に着くとすぐ、ホテルの近くのコーヒーショップに入り、席についた。座り心地のいいソファと暖かな雰囲気に、緊張がほぐれた。ジェイはハーグで飲んだビールの酔いがまだ抜けきっておらず、顔が真っ赤だった。私はウェイターに向かって手を上げた。ウェイターは私たちのテーブルへ来ると、私とジェイに微笑んだ。私はたどたどしい英語で、マリファナを買えるかと聞いた。彼はマリファナ専用のメニューをテーブルに広げ、種類と強さについて親切に説明してくれた。その中で、「クリシュナ」という名前のマリファナがぱっと目に入った。私は、それがインドの神クリシュナから取った名前だと思った。私がクリシュナをくれと言うと、ウェイターはそれがいちばん強いやつだが大丈夫かと聞いた。私は迷わなかった。どうしてもクリシュナでなければならないような気がした。
カウンターでは、マネージャーらしい男がステレオのCDを替えていた。静かなピアノ・トリオの演奏がスピーカーから流れ始めた。ウェイターがマリファナを私たちのテーブルに置くと、ジェイは私を見て満面の笑みを浮かべ、ウインクした。私は慎重にマリファナを一本巻いた。それからもう一本巻いた。ジェイは両手をこすり合わせながら、好奇心に満ちた目で私の手元を見ていた。大きめに二本とも巻き終えると、そのうち一本をジェイに差し出した。ジェイは唇を舐めてからマリファナをくわえた。ライターで火をつけると、ジェイは深く一服吸い込んだ。私も自分のマリファナに火をつけ、一服吸った。
「何よ、この味」ジェイがむせながら言った。
「マリファナ吸ってぶっ飛んだなんて話、全部嘘だな。これ、タバコより軽いぞ」
「えー。完全に騙された」
「だから言っただろ。なんでこんな高いもの吸いたいなんて言ったんだよ。金がもったいない」
「ごめん。くだらない意地張って」
私たちは手に持っていたマリファナを最後まで吸った。だが全部吸い終えるまで、特別な印象は何もなかった。マリファナからは古い麻布の布団のような匂いがした。口の中がざらつくので、吸っているあいだずっとコーヒーをちびちび飲んだ。
「ところでさ、私たち、明後日、ロンドンに行くことにしたんだっけ、バルセロナだっけ? いや、ローマって言ってた?」ジェイが言った。
「ロンドンへ行って、ミュージカルでも一本見るか?」
「ミュージカル?」
「『オペラ座の怪人』とか『レ・ミゼラブル』は?」
「そういうの、暗すぎるじゃない。ほかにないの?」
「『シカゴ』か『マンマ・ミーア!』は?」
「『マンマ・ミーア!』にしよう」
「そうするか」
「それから何する?」
「知らない。行けば分かるだろ。でも、なんでここでこの曲が流れてるんだ?」私はスピーカーを指さして言った。
「何の曲?」
「この曲知らない? イ・テウォンの『ソルゲ』じゃないか。でもちょっと変だな。オリジナル盤なのかな。ちょっと待て」
私は目を閉じ、スピーカーから流れてくる音楽に耳を澄ませた。イ・テウォンの『ソルゲ』に間違いなかった。体がふわりと空中へ浮かぶような気がした。まるでトビになって空を飛び回っているような恍惚とした気分だった。私はスピーカーから流れるイ・テウォンの『ソルゲ』を口ずさんだ。
「聞いた?」私が言った。
「何を?」
「この曲だよ。イ・テウォンの『ソルゲ』じゃないか。『ソルゲ』は二番で『僕を嘲笑い』が『僕を見ながら』に変えられたんだ。三番では『意味のない一日』が『意味のある一日』に変わってる。軍事独裁の時代に検閲だとか言って、原曲の歌詞を勝手に変えやがったんだ。腐った連中だよ。アムステルダムで『ソルゲ』の原曲を聴くとはな。すごくないか? ここのマネージャー、韓国と何か関係あるんじゃないか?」
「ねえ、あんた、どうしたの?」ジェイがけらけら笑いながら言った。
「俺が何?」
「馬鹿。この曲、イ・テウォンの『ソルゲ』じゃないよ」
「じゃあ何なんだ?」
「ソン・デグァンの『ヘトゥルナル』じゃない。よく聴いてみて」
そう言うと、ジェイは突然席を立ち、ソン・デグァンの『ヘトゥルナル』を歌い始めた。
「夢を抱いて来たんだ
僕が来たんだ
悲しみも苦しみも みんなみんな退いてくれ
できないことなんてない
努力すれば
ぱっと日が昇る日が またやってくる
ぱっと日が昇る日が またやってくる」
言われてみれば、スピーカーから流れていたのはイ・テウォンの『ソルゲ』ではなく、ソン・デグァンの『ヘトゥルナル』だった。陽気なリズムにつられて、私まで肩が上下した。
「おい。待て、ちょっと待て」私はジェイを呼んだ。
「何?」
私はにやりと笑って言った。「一緒に歌おう」
ジェイと私はマリファナにすっかり酔い、ソン・デグァンの『ヘトゥルナル』を陽気に歌った。ジェイはバッグから折り畳み傘まで取り出し、マイクのように手に持ってソン・デグァンの真似をした。私たちは向かい合って大声で笑った。無邪気に笑うジェイがきれいに見えた。これまで積もりに積もったストレスが、煙のように消えていった。ところがウェイターが私たちのテーブルへやってきて、ここで歌ってはいけないと言った。私は深く息を吸い込み、周囲を見回した。コーヒーショップの客たちは椅子までこちらへ向け、くすくす笑いながら私たちを見物していた。隅のテーブルでマリファナを吸っていた若者たちは、私たちに向かって拍手までしていた。
私はジェイの手首をつかみ、席に座らせようとした。するとジェイは私の手を振り払い、「何よ?」と叫んだ。私はしばらく言葉を失ったままジェイを見た。ジェイも何かおかしい気配に気づいたのか、ぼんやりした目で周囲を見回し、それからどさりと席に座り込んだ。
「ああ、恥ずかしい」ジェイが言った。
私たちはしばらく黙っていた。もう私たちを見ている者は誰もいなかった。
「そろそろ行く?」
「もう?」
ジェイはすました顔をしてから、唇を尖らせた。ジェイのかわいい唇を見ると、今朝盗み見たピンク色の乳首が浮かんだ。私は自分の耳たぶを強くつねった。
「もう一本だけ吸おうよ。小さいのを一本だけ巻いて」ジェイが言った。
「もうやめよう」
「残ったのはどうするの?」
「捨てればいいだろ」
「こんな高いもの、なんで捨てるのよ。それよりもう一本だけ吸っちゃだめ?」ジェイが鼻にかかった甘え声で言った。
「じゃあホテルへ戻って吸おう」
「私は今もう一本吸いたいの。あんたが私の乳首を盗み見た記憶、まだきれいさっぱり消えてないんだから。ねえ、本当にもう一本だけ吸おうよ」
私はしばらく迷った。もちろん私だって、もう一本吸いたい気持ちがないわけではなかった。
「俺たちの部屋にはバルコニーもあるから、そこで吸えば誰にも分からない。それならいいだろ」
「いいよ。じゃあマリファナはホテルに行って、気楽に吸おう。あんた、ちゃんと約束したからね」
「分かった、分かった」
ジェイと私は静かにコーヒーをちびちび飲んだ。ジェイは何を考えているのか、指でテーブルの上に円を描いていた。
「中学生のころは、あんた私より小さかったのに。高校に入ったら急に背が伸びたよね」
「そうだったか? そうだったような気もするな」
「ねえ、子どものころ、うちの近所にいたシェパード覚えてる? ときどきリードもつけずに近所をうろついてたじゃない」
「ナ・ギョンス校長の家で飼ってた凶暴なシェパード? もちろん覚えてるよ。毎晩、狼みたいにどれだけ吠えてたか。あの家の息子も、そのシェパードみたいに性格が最悪だった」
「覚えてるんだ。あるとき学校から帰る途中、そのシェパードが私に飛びかかってきたの。そしたら、あんなに小さかったあんたが私の前に立って、その犬を止めてくれた」
「そんなことあったか?」
「あんたが怖い声で、あっち行け! あっち行け!って叫んだら、シェパードが戸惑って、びくびくしながら後ろへ下がったの。あのとき首でも噛まれてたら、私、死んでたかもしれない。あんたは私の命の恩人じゃない。本当に覚えてないの?」
「覚えてないな。なんで?」
「馬鹿。じゃあいい。金浦にある商業ビルが厄介なの」
「新築なのに、何が厄介なんだ?」
「建物を管理するって、思ったより大変なのよ。信用して任せられる人がいたらいいんだけど」
「周りで探してみろよ。それか求人サイトに募集を出すとか。それが一番早い」
「ソウルに戻ったら、ミヒョンと本当に離婚するの?」
「いや。なんで離婚するんだ? しないよ」
「もうすぐ別居期間も終わるんでしょ」
「それでもそんなことはできない。ミヒョンだって俺なしじゃ生きられないはずだ」
「それ、あんたの考えでしょ?」
「違う。ミヒョンも同じことを考えてるはずだ。俺たちは少し離れて、状況を冷静に見る時間が必要だっただけなんだ。俺は帰国したら酒もやめるし、タバコもやめる。こんな俺を見たら、ミヒョンだってきっと喜ぶよ」
しかし私は知っていた。私たちの結婚生活は、もう完全に終わってしまっているということを。
今夜、ジェイはマリファナに酔って私を誘惑するかもしれない。いや、ひょっとすると私のほうから先にジェイを誘惑するかもしれない。ジェイのかわいい唇にキスをして、ピンクがかった乳首を一度吸ってみたいという欲望がまったくないわけではない。それでも私は絶対にジェイとはセックスしない。妻は、私がパリとアムステルダムではもちろん、ロンドンでもジェイと寝なかったという事実を知れば、私を立派だと思ってくれるかもしれない。私は自分自身を裏切ったことなら数え切れないほどあるが、妻を裏切ったことは一度もなかった。私はここに最後の望みをかけるつもりだ。
ホテルへ戻る道で、私は小さな声で『ソルゲ』を口ずさんだ。
「僕らは何も言わずに生きていけないのか。空を飛ぶトビのように……」
九時を過ぎているのに、空はまだ明るかった。私は、それが緯度のせいだということをよく知っていた。
—終—