11月 作業部屋

11月の初日から、よくない知らせだ。シシナおじさんの民事訴訟で、加害者にたった四百万ウォンしか賠償させないという判決が出た。シシナおじさんの治療費と五日分の日当、それにわずかな慰謝料を合わせた金額だ。ドンワンは、その金では弁護士費用にもならないだろうと言う。幸い、ドンワンのお父さんがシシナおじさんに、弁護士費用のことは心配しなくていいと言ったそうだ。

父さんは作業部屋で、ノートパソコンに向かって何かをずっと書いている。シシナおじさんのための嘆願書ではなさそうだけど、何だろう?

ジョングのお兄さんが校門の前でジョングを待っていた。でもジョングは今日、風邪で体調を崩して学校を休んだ。ドンワンがジョングの携帯に電話しようとすると、お兄さんは、それはいい方法じゃないと言った。ジョングのお兄さんは僕たちに、ジョングとこれからも仲よくしてやってくれと言って帰っていった。

名残惜しそうに去っていくジョングのお兄さんの後ろ姿が寂しい。

世の中には幸せじゃない人が多すぎる気がする。

どうしてなんだろう?

父さんは作業部屋で、ずっとマーラーの『交響曲第9番』を流して過ごしている。僕は何度聴いても耳になじまない。メロディーもないこんな音楽を、どうして聴くのかまったく分からない。父さんがソファに座って音楽を聴いているあいだ、僕は父さんのテーブルで数学の勉強をした。

マーラーの音楽は耳に残るところがないせいか、勉強の邪魔にならない。

本当に変わった音楽だ。

夜、母さんが地下室へ下りてきて、うちの地下室にはタヌキが二匹住んでいると言って笑った。いつものように父さんは母さんにソファを譲った。

幸い、父さんは大学時代の話を一言もしなかった。

今日、奇跡が起きた。

ヒジョンが解けなかった数学の問題を、僕が解いたのだ。

ヒジョンがどれだけ驚いて喜んだかについては、何も言わないことにする。

ジョンス叔母さんには、必ずお礼を言わなければ。

叔母さんが先週教えてくれた問題のおかげで、ヒジョンに褒められた。

午前中に数学と英語の勉強を終え、ドンワンの家へ遊びに行った。

今では僕たちが集まると、基本が六人だ。

僕、ヒジョン、ドンワン、ミナ、ジョング、ヘソン。

ドンワンのお母さんが、僕たちのせいでエンゲル係数が上がると言った。

エンゲル係数って、人口密度のことだろうか?

母さんの誕生日記念に、両親が二泊三日で束草へ旅行に出かけた。

僕は今日から二日間、祖父の家で過ごさなければならない。

母さんと父さんは夜明けから起きて、荷造りだ何だと大騒ぎしている。僕なら昨夜のうちに荷物をまとめておいたのに。

こんな大切な記念日に、どうして僕だけ仲間外れにされなければならないのか分からない。

まさか、二人目の子どもを作ろうとしてるんじゃないだろうな!

朝、家へ寄ってバドゥギに朝ごはんをやってから登校した。

昨日、祖父の家へ連れていけなかったので気になっていたのに、バドゥギはそんなことを知っているのかいないのか、餌入れに頭を突っ込んだままだ。

昼ごはんも多めに入れてやってから学校へ行った。

放課後も家へ寄り、バドゥギに夕ごはんをやった。

それから父さんの本棚からロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』を一冊持って、祖父の家へ行った。

12月9日のクラシックコンサートのせいで、最近クラシック音楽に少し興味が出てきた。

夕食を終えて『ベートーヴェンの生涯』を読んだ。

とても面白かった。

ロマン・ロランがものすごく興奮した状態で書いたような感じがする。

「楽聖ベートーヴェン」という言葉はよく聞いていたけれど、彼がこれほど高潔な人だったとは知らなかった。

僕はベートーヴェンのハイリゲンシュタットの遺書を読んで、とても感動した。

耳の聞こえない音楽家なんて、本当に想像もできない。

印象に残った文章が一つあったので、書き留めておく。

作曲が一度終わったあとで、それを修正したりする習慣は私にはない。これまで私は修正というものをしたことがない。そうした変更は作品全体の性格を壊してしまうと確信しているからだ。

作曲と数学は似ている気がする。

僕も一度解いた問題をもう一度解いて答えを書き直すと、必ず間違える!

今日は母さんの誕生日だ。

母さんと父さんだけで束草へ旅行に行ったので、少し寂しい。

朝、家へ寄ってバドゥギに朝ごはんをやったけれど、こいつは寂しいことなんて一つもないらしい。

ペットショップのおじさんが、珍島犬の遠い親戚だと言っていたのは、どうも嘘だったようだ。

母さんの誕生日プレゼントに花を買った。

母さんは機嫌がいいのか、僕の頬にキスをした。

僕はもう大きくなったので、母さんのキスなんていらないのに。

ヒジョンのキスならともかく。

母さんと父さんは、束草でイカを何束も買ってきた。

最高級品だそうだ。

それから明太子の塩辛も何箱も買ってきた。

それをヒジョンの家とドンワンの家にプレゼントした。

ジョンス叔母さんの家には特別に、イカの塩辛、チャンジャ、えらの塩辛、小イカの塩辛まで一箱ずつあげた。

祖父の家にはイカの代わりに干しカワハギと明太子の塩辛を持っていった。

シシナおじさんは家にいなかったので、干しカワハギを一袋、メモと一緒に屋上部屋の入口に置いてきた。

夕方、シシナおじさんがうちへお礼を言いに来た。

父さんは、おかず作りから解放されたとでもいうように鼻歌を歌いながら冷蔵庫を整理している。

しばらくうちのおかずは、明太子の塩辛、イカの塩辛、チャンジャ、えらの塩辛、小イカの塩辛と目玉焼きになるんだろうな!

うわあ!

チョルジンのやつが授業中にゲームをしていて、担任の先生にスマートフォンを没収された。

数日前の科学の時間にも一度没収されている。

授業が終わってから職員室へ行き、ようやく返してもらったのに、今日また見つかったのだ。

チョルジンのやつは、先生がどれだけ注意してもまったく効かない。

担任の先生が、もう一度授業中にゲームをしたら、今度は親が学校へ来なければスマートフォンを返さないと言った。

僕はとても賢明な処置だと思う。

父さんが作業部屋で何かをずっと書いている。

いったい何なんだろう?

父さんの作業部屋のテーブルの前に、こんなメモが貼ってある。

1. 親指童子

2. 消失点

3. 小心者ファン・マンドク氏の大胆な一日

4. 音痴たち

5. 非常勤講師イムギ氏の007鞄

6. 九冊の名刺帳だけを残した男

7. ミスター・リーのミステリー

いったい、これは何だ?

母さんから、会社の仕事でかなり遅くなると連絡が来た。

父さんと僕は祖父の家へ行って夕食を食べた。

バドゥギも連れていったけれど、父さんが玄関の前につないでおいた。

バドゥギはマンションが初めてなのか、かなり落ち着かない様子だった。

ところがバドゥギが、玄関にある靴の匂いを一足ずつ嗅ぐではないか。

さすが駄犬!

そういえば、靴下を脱ぐと必ず一度匂いを嗅ぐうちの父さんにも、かなり似ている気がする。

夕食を終え、祖父、父さん、バドゥギまで、みんなで散歩に出た。

父さんはバドゥギと歩き、僕は祖父と一緒に歩いた。

「ビョクが数学の勉強も一生懸命やって、学校の成績もずいぶん上がったから、じいちゃんはうれしいよ」

祖父が僕の頭をなでながら言った。

「はい。まあ、何となくそうなったんです。別に、そうしようと思ったわけじゃないんですけど」

「ヒジョンのおかげだろ?」

「あ、はい……」

突然の質問に慌てて、僕は曖昧に答えた。

「ところで、おじいちゃん。うちの父さんは親孝行なんですか?」

僕は矢を父さんのほうへ向けた。

「親孝行? もちろん、親孝行だよ」

「父さんは仕事もしないし、お金も稼がないし、おじいちゃんやおばあちゃんにお小遣いもあまりあげられないじゃないですか?」

「いや、それはビョクがよく分かってないからだよ」

祖父が笑いながら言った。

「お前の父さんは今、文章を書いているそうじゃないか。昔から文章を書きたがっていたんだ。食べていくためにずっと会社勤めをしてきたんだから、これからは自分のやりたいことをするそうだ。お前の父さん、格好いいと思わないか?」

「そうですか?」

「そうだよ。お前の父さんは子どものころに、このじいちゃんに十分親孝行をしてくれた。育てているあいだ、本当に幸せだった。それで十分だ。じいちゃんは、もう何も望むことはないよ」

祖父の口元に浮かんだ穏やかな笑みが、僕の顔にまで広がってくる。

何だろう。

この満ち足りた気分は。

ジェイミーおじさんが、最近の僕の日常生活について聞いた。

僕は、バドゥギがうちの新しい家族になったことと、来月クラシックコンサートへ行くことになったので、マーラーの音楽もときどき聴いていると話した。

本当はマーラーを聴いていると言えるほどではなく、父さんの作業部屋へ下りるたびに何小節か耳に入る程度だとも話した。

僕のめちゃくちゃな英語を、ジェイミーおじさんは理解したようだった。

僕はジェイミーおじさんと話すとき、口より手と目をたくさん使う。

ときどき体まで激しく使う。

おじさんも、車椅子に乗る前はときどきコンサートへ行ったそうだ。

でも今では、一人で公園へ散歩に行くのも簡単ではないという。

〈そうですよね、おじさん。パリの救急外来で車椅子に座ったとき、いちばん最初にジェイミーおじさんのことを思い出したんですよ〉

僕は心の中でそう言ってあげた。

これは手振りや身振りでも伝えられそうになかったからだ。

おじさんは、この冬が来る前に奥さんと一緒にボストンへ旅行する準備をしているそうだ。

長い旅行ではなく、三泊四日くらい行ってくるという。

ニューヨークからそれほど遠くないので、最初の挑戦として行ってみることにしたそうだ。

ジョンス叔母さんの家で勉強を終え、ヒジョンの家へ遊びに行った。

ヒジョンのお兄さんが大学修学能力試験をうまく受けたからなのか、家の中の雰囲気が明るかった。

雰囲気を見るかぎり、美大に合格したようだった。

よかった。

お兄さんが来年プラド美術館へ行ったら、ヒジョンと一緒についていこう!

朝起きると、かなり肌寒い。

秋が深まっていく。

落ち葉は道で転がり

父さんは作業部屋で転がり

バドゥギは犬小屋で転がり

僕は数学の宿題をするため、机で転がる。

午後、書店へ行って、ヒジョンに読んであげる本を一冊買った。

あれこれ本をめくって、結局パトリック・ジュースキントの本を一冊選んだ。

『鳩』という本だ。

薄くていい。

今週の金曜日に、うちの学校の秋祭り、パムソム祭が開かれる。

ダンスの練習、歌の練習で、放課後はみんな忙しい。

僕には特別な特技がないので、何もしない。

生まれつき音痴で、踊りもからきしだから、じっとしていることが行事の進行を助けることになる。

ヒジョンは絵を一枚展示することになった。

美術の先生が特別にヒジョンへ頼んだそうだ。

僕に詩を頼んだ人は誰もいなかった。

どうせ僕は詩人になるつもりもないから、構わない。

パトリック・ジュースキントの『鳩』は悲しい話だ。

パリのセーヌ川やモンパルナス墓地みたいな見慣れた場所が出てくるので、少しうれしくはあった。

でも、主人公が一羽の鳩のせいで自殺寸前まで追い込まれる恐ろしい話だ。

主人公が死なないといいんだけど……。

鳩の群れに必死で追いかけられている途中で、夢から目が覚めた。

きっと悪いことが起きる前兆だ。

やっぱりこうなると思った。

今日、期末試験の日程が発表された。

あの鳩は、どうやら試験の象徴らしい。

鳩が平和の象徴だなんて、まったくのでたらめだ。

ヒジョンが、パムソム祭に展示する絵を見せてくれた。

幻想的で、夢のような絵だった。

画面の左側と右側に人々が集まっていて、みんな円錐形の帽子みたいな変なものをかぶっていた。

画面の中央では煙が立ち上り、雲のように広がっていた。

画面の下には、大きな剣に刺された蛇の頭があり、その剣の持ち主らしい人物がとても苦しそうにしていた。

ヒジョンはほとんど色を使わず、ペンと黒い絵の具だけで描いていた。

怖くて変な絵だった。

ヒジョンの頭の中には、いったい何が入っているんだろう。

こんな絵を思いつくなんて……。

『鳩』の主人公ジョナタンおじさんが、鳩のいなくなった自分のアパートへ戻った。

よかった。

僕までほっとする。

これで試験勉強に専念できる。

しばらく本を読むのはやめよう。

雨のため、パムソム祭は学校の講堂で開かれた。

ヒジョンの絵は片隅へ追いやられ、どうにか展示された。

校長先生と教頭先生は、これは何の絵だと驚いた。

美術の先生がきちんと説明してくれたけれど、隅へ移されるのまでは止められなかった。

大人たちは、子どもたちが芸能人の真似をして踊ったり歌ったりするのは健全だと思っているらしい。

今夜ベッドに横になっていて、ふと思った。

校長先生と教頭先生がヒジョンの絵を片づけろと言ったこと自体が、まさにヒジョンが表現しようとしたものなのではないだろうか。

ヒジョンは人々の偏見を描いたのだ。

円錐形の帽子をかぶっている人たちは世の中の普通の人々で、蛇はシシナおじさんやドンワン、剣の持ち主は悪い人を表しているのだ。

ヒジョンはそれをペンと黒い絵の具だけで暗く描いたのだ。

明日、ヒジョンに聞いてみよう。

ヒジョンは僕の感想を聞くと、けらけら笑った。

夢そのものより、解釈のほうが立派だって。

ヒジョンは、数日前に見た夢をそのまま絵にしただけだと言う。

違う、違う!

ヒジョンの無意識の中には、僕が言ったような考えが潜んでいるはずだ。

さらに考えてみたけれど、円錐形の帽子はKKKを象徴し、蛇は強い力を表しているんじゃないだろうか。

『ハリー・ポッター』でも、ヴォルデモートとハリーはどちらも蛇の言葉を話し、不思議な力を持っているじゃないか?

それから、うーん……。

ヒジョンの言うとおり、やっぱり夢より解釈なのかな?

秋が終わろうとしている。

ソウルの気温が零下まで下がった。

ヒジョンと一緒に、うちで期末試験の勉強をした。

前回あまり点数のよくなかった国語を、毎日少しずつ見ることにした。

それから、なかなか覚えられない漢字も暇を見て勉強することにした。

科学も難しいので、時間を見つけて見ることにした。

音楽も侮れない。

前もって見ておかなければ。

社会もおろそかにはできない。

頭が十個あっても足りなそうだ。

いちばん楽な科目が数学と英語だ。

何かがおかしい。

午後、ヒジョンに『鳩』を少し読んであげた。

最初の何ページかは少し困った。

物語の冒頭で、主人公ジョナタンおじさんの妻が結婚して四か月で男の子を産み、そのあと果物屋とできて逃げてしまうからだ。

この本は声に出して読むたびに、体が締めつけられるような気がする。

『鳩』は『ゾマーさんのこと』とは雰囲気がずいぶん違うからだろう。

でも不思議なことに、『鳩』のほうにもっと惹かれる。

ジョングのお母さんとお父さんは離婚訴訟中だ。

ジョングのお父さんは絶対に離婚しないと言い張り、ジョングのお母さんは、もう同じ家では暮らせないと言って荷物をまとめて出ていった。

ジョングのお母さんとお父さんは、慰謝料のこととジョングの親権のことで、今日も大喧嘩したそうだ。

ジョングは、お母さんにもお父さんにもついていかないと言っている。

ジョングがかわいそうだ。

今日は祖母の誕生日だ。

祖母にバラを一輪買い、カードと一緒にプレゼントした。

おばあちゃん、ありがとうございます。

いつまでも元気でいてください!

ジョングが家出した。

何があったんだろう?

ドンワンがジョングの携帯に電話したけれど、電源が切れていた。

ヘソンは一日じゅう泣きそうな顔をしている。

ジョングが家へ戻った。

昨日、ジョングは兄のところへ行ったが、お兄さんがジョングを家へ帰したそうだ。

まだジョングのお兄さんには、ジョングまで養えるだけの余裕がないのだろう。

一緒に暮らせたらいいのに……。

でもジョングの顔は、前よりずっと明るくなっていた。

ジョングのお兄さんは、ジョングに何か約束したのだろうか?

ドンワンによると、ジョングのお母さんとお父さんが離婚したら、ジョングはお母さんについていくことにしたそうだ。

そうすれば、ジョングはお兄さんと一緒に暮らせる。

聞いてみると、ジョングのお兄さんは、お父さんに隠れて、ときどきお母さんに会っていたそうだ。

ジョングのお母さんも、誰にも知られないようにジョングのお兄さんの生活費を助けていた。

今回ジョングが家出して、お兄さんのところで一晩過ごしながら、こういう話を全部聞いたそうだ。

ジョングのお兄さんは、少しのあいだだけ我慢しろと言い、お母さんとお父さんが離婚したら、絶対にお母さんについていけと言った。

そうすれば、お母さんとお兄さんと同じ家で暮らせるからだ。

その話で、ジョングの顔が明るくなったのかもしれない。

胸が痛い。

ジョンス叔母さんの家で数学と英語の勉強を終え、ヒジョンと一緒にうちへ来た。

父さんは作業部屋で、ずっと何かを書いている。

マーラーの『交響曲第9番』に飽きないのだろうか。

父さんの作業部屋へ入るたびに、いつも同じ音楽が流れている。

ほんの少し前までソファにもたれて、ぼんやりフラッシュガールを見ていたなんて信じられない。

「毎日同じ音楽ばかり聴いて、飽きないんですか?」

ヒジョンも気になったのか、うちの父さんに聞いた。

「ん? 何の音楽?」

「この音楽ですよ。いつもマーラーの『交響曲第9番』ばかり聴いてるじゃないですか」

僕も口を挟んだ。

「いや、聴いてないよ。ただ流してるだけ」

「え?」

ヒジョンと僕が同時に叫んだ。

「マーラーの音楽は耳に入ってこないから、仕事の邪魔にならないんだ。メロディーのいい音楽は作業の邪魔になるから」

父さんの仕事は数学の問題を解くことでもないのに、僕と似ている。

ヒジョンが父さんのテーブルの前に貼ってあるメモを見ながら聞いた。

「これは何ですか? 親指童子、消失点、それから小心者……」

「ああ、それ。今書いてる話だよ。去年の夏、ローマで聞いた話が一つあるんだ。聞いてみる?」

父さんの目が光った。

「はい!」

僕たちが答えた。

「こういう話なんだ。ローマで会った人の中に、シチリアのパレルモ出身の男がいた。シチリアは韓国で言えば済州島みたいなところだ。とにかく、その人の名前はトトっていうんだけど、いつもものすごく大きな傘を差して歩いていた。パラソルみたいな大きな傘だよ。

あるとき俺が聞いたんだ。そんな大きな傘を持ち歩いたら重くないかって。

するとトトが、自分でもどうしようもないと言うんだ。

数年前、サハラ砂漠へ旅行に行ったとき、あまりにも強い日差しで影が焼けて蒸発してしまったんだって。

それから影を探してあちこちさまよったけれど、見つけられなかった。

それで、人に気づかれないように、いつもこうして傘を差して歩いているらしい。

ところがある日、影をなくした人間がほかにもいることを知ったんだって。

パリのサンジェルマンへ行くと、ああ、お前たちも行っただろ。ビョクが犬の糞を踏んで滑った、あそこだよ。

とにかく、そこにはベルドジュールっていうクラブがあるらしい。

エッフェル塔に満月がかかる夜になると、そこへ影をなくした人たちが集まるんだって。

トトによれば、ある人は南極探検へ行ったとき、影がカチカチに凍ってしまったらしい。

それで結局、影を南極に置いて帰るしかなかった。

ある人はフランスのモンペリエの海岸で昼寝をしているあいだに、影を盗まれた。

そしていちばん変なのはベンジャミンという男で、その人は風がものすごく強かった日に、影が空へ飛んでいってしまったんだって。

かわいそうだよな、本当に。

ところが少し前、影を十個以上も持っている人間が現れたらしい。

オリヴィエ伯爵という男なんだけど、トトはそいつが影泥棒だと信じていた。

近いうちにオリヴィエ伯爵を捕まえるため、追跡隊が作られるらしい。

俺も追跡隊に入りたかったんだけど、影を持っているから隊員にはなれないと言われた。

それで結局、こうして帰国したんだ」

非常事態!

父さんがおかしい!

母さんによると、父さんはいたって正常だそうだ。

父さんがヒジョンと僕に聞かせた話は、今書いている小説の内容だという。

父さんは毎晩、母さんに小説の内容を話して聞かせるそうだ。

母さんは、うんざりして死にそうだと言う。

でもそれは母さんの事情で、とにかく本当によかった。

危うく精神病院へ父さんの見舞いに行くところだった。

父さんは、本が出て印税をもらえば金持ちになると言ったそうだ。

母さんは、小説よりこの話のほうがずっと信じられないと言っている。

ドンワンのお父さんが、うちの父さんとヒジョンのお父さんに電話した。

年末に三家族で一緒に旅行へ行こうと言った。

父親たちはみんな、いいねと言ったそうだ。

でもまだ、どこへ行くかは決めていない。

もちろん父親たちは、母親たちの許可も取っていない。

父親たちだけで、こんなふうに勝手に決めていいのだろうか。

まだ冬休みにもなっていないのに、母さんと父さんはどこへ旅行に行くか話している。

一人しかいない大切な息子が、人生の重大な期末試験を目前にしているというのに、母さんと父さんはまるで関心がない。

僕は放牧されている。

僕は束草がいいんだけど。

そこでヒジョンと一緒に新年の日の出を見たら、どんなにいいだろう。

僕たちの愛も深まるだろうし……。

試験まであと一週間しかない。

ドンワンはミナとほとんど毎日一緒に勉強している。

ドンワンは愛と友情のあいだで、ほとんど悩むことなく愛を選んだ!

ヒジョンは、お兄さんが試験勉強を手伝ってくれるというので、すぐ家へ帰った。

ジョングとヘソンは、ジョングのお父さんの目を避け、読書室で一緒に勉強している。

もし試験がなかったら、勉強しなくてもいいんだろうか?

よく分からない。

勉強は嫌いじゃないけれど、試験は本当に嫌いだ。

試験のない世界で暮らしたい。