2月 開け、人生!

父さんに、今書いている小説はいつごろ読めるのかと聞いたら、

「今書いてるのは短編じゃなくて長編小説なんだ」

と父さんが力を込めて言った。

父さんの作品を読めるのは、今年の夏が過ぎてからになるのだろうか?

父さんのお使いで祖父の家へ行ってきた。

プンオパン兄ちゃんの屋台が、ずっと見当たらない。

商売がうまくいかなくてやめてしまったのだろうか?

それとも、また就職したのだろうか?

祖父の家へ行くたびに、プンオパンを一つずつ食べる楽しみがなくなった。

兄ちゃんが元気に暮らしていればいいんだけど……。

祖父の家へ行くと、祖母がワタリガニの和え物を大きな容器いっぱいに詰めて持たせてくれた。

父さんがこれを食べたいと祖母に言ったらしい。

持って帰ってはきたけれど、なぜか少し不安だ。

戦争が起きそうな気がする。

案の定、父さんは母さんにひどく叱られた。

体の具合がよくない姑に料理を作ってくれなんて頼んではいけない、というのだ。

ワタリガニの和え物がそんなに食べたいなら、自分で作るか買って食べればいいのに、どうして姑にそんなことを頼んだのか、と母さんは言った。

父さんは、買ったものではどうしてもあの味が出ない、と言い訳した。

その言葉を聞くと母さんはそれ以上何も言わなかったけれど、僕から見ても父さんが悪いのは明らかだった。

何年か前、祖母が膝の関節の手術を受けてから、母さんと父さんは、これからは祖母の家からキムチやおかずをもらわないことにした。

共働きだからと祖母が何度も料理を作ってくれるのを、母さんは申し訳なく思っていたのだ。

そのとき父さんも母さんに感謝しながら、確かに同意した。

ところが父さんが先に約束を破った。

しかも父さんのサバティカル計画表の5番は、

「実家の母には絶対におかずを作ってくれと頼まない」

だ。

母さんは作業部屋へ下りていく父さんに、

「これから私が家事をするから、あなたが会社へ行く?」

と聞いた。

父さんは何も答えなかった。

どうやら今回の冷戦は、少し長引きそうだ。

まったく、どうして父さんは母さんのプライドを刺激するのだろう。

それでも何はともあれ、祖母のワタリガニの和え物は天下一品だ。

ごはんを二杯も食べた。

母さんと父さんの雰囲気さえよければ、三杯でも食べられたのに……。

父さんはまだワタリガニの和え物事件のショックから抜け出せずにいる。

作業部屋で小説も書かず、ジャック・ニコルソンが斧を振り回す怖い映画ばかり見ている。

早く父さんが母さんに謝ればいい。

それが嫌なら、また江華島にでも行ってくればいいのに……。

ドンワンがうれしい知らせを教えてくれた。

シシナおじさんを殴った不良のやつは、実は浪人生だったのだが、今回も大学に入れなかったそうだ。

これで三度目の受験に挑むことになる。

ドンワンのお父さんが弁護士のおじさんからこの話を聞くと、

「正義は実現された」

と言って歓声を上げたそうだ。

これは本当によかった。

このやろう、少し苦しんでみろ!

これからまた一年、お前の家は墓場みたいになるんだろうな!

ジョンス叔母さんの家で数学と英語の勉強を終えて家へ帰ると、母さんと父さんが台所で一緒に料理をしていた。

確か今朝まで冷戦中だったはずなのに、いったい何があったのだろう?

ものすごく仲がいい。

お願いだから今日は、父さんが皿を割りませんように。

ヒジョンのお兄さんについて、ヒジョンと一緒に国立中央博物館へ行ってきた。

ソッキ兄ちゃんは美大に合格してから、ほとんど毎日のように美術館や博物館へ行っているそうだ。

今日はヒジョンが特別に頼んで、僕たちもついていった。

テレビでしか見たことのなかった『外奎章閣儀軌』を、自分の目で見た。

本当にきれいな本だった。

ルーヴル美術館で見た古書より、韓国の昔の本のほうが気品があって格好よく見えた。

ソッキ兄ちゃんによると、この本は王が見るために作られたものなので、紙も最高級なのだそうだ。

特に絹と真鍮で装丁してあるので、格調があるらしい。

兄ちゃんの言うとおり、世界でいちばん美しい本のように思えた。

朝鮮時代の絵画展示室では、ソッキ兄ちゃんが僕たちに肖像画の描き方について詳しく説明してくれた。

朝鮮時代には儒教の影響で、人をありのままに描いたそうだ。

斜視なら斜視のまま描いたという。

もし顔のあばたの跡を一つでも消せば、嘘の絵だと卑しく見られ、その人の人格まで疑われたそうだ。

ところが、こちらでそんな絵を描いていたころ、西洋では都合の悪いところを全部取り除いていたらしい。

シューベルトは本当はとても背が低くて不細工だったのに、肖像画では美男子に描かれているという。

今でいうところの、ものすごいフォトショップ加工をしたからだそうだ。

前に来たときは気づかなかったけれど、今日見ると博物館の展示品はほとんどガラスで保護されていた。

そのせいで写真を撮ってもガラスに反射して、使える写真があまりなかった。

ルーヴル美術館やオルセー美術館には、ガラスで保護されていない作品もかなり多かったのに。

ヒジョンがトイレへ行っているあいだ、ソッキ兄ちゃんが突然、

「初恋っていうのは、かなわないものなんだよ」

と言った。

自分にも初恋があったけれど、うまくいかなかったらしい。

ううっ!

こんなところから伏兵が飛び出してくるとは!

〈兄ちゃんはよく知らないみたいだけど、ヒジョンは僕の初恋じゃないんですよ。幼稚園のころにはチェヨンがいたし、小学生のころにはスミンがいました。片思いは除いてもですよ!〉

と、僕は心の中で言ってやった。

面と向かって言うのは、ちょっとどうかと思う。

ヒジョンを僕の初恋だと思うなんて……。

誰かに聞かれたら、僕がこの年になるまで何もせずに生きてきたみたいに誤解されるじゃないか。

僕を何だと思ってるんだ?

今日はプライドをものすごく傷つけられた。

ヒジョンのお父さんが、今週土曜日の夕食にうちの家族を招待してくれた。

ジョンス叔母さん夫婦とドンワンの家族も一緒に招待されたそうだ。

ヒジョンのお兄さんの美大合格を祝う席だ。

ソッキ兄ちゃんをプレゼントで丸め込まなければ。

何をプレゼントしよう?

やっぱりヒジョンに聞いてみるしかない。

ヒジョンのお兄さんは最近、運転免許の教習所に通っているらしい。

悪いけど、自動車は僕には無理だ。

何かほかにいいものはないだろうか?

父さんは作業部屋からまったく動かない。

母さんが、一日に一時間くらいは散歩しなさいと言うほどだ。

父さんはいったいどんな小説を書いているのだろう。

せめて題名くらい教えてくれればいいのに……。

父さんの作業部屋からは、もう音楽も聞こえてこない。

僕もしばらく立入禁止だ。

ヒジョンと一緒に、ソッキ兄ちゃんが紹介してくれたアトリエへ行ってきた。

ソッキ兄ちゃんはここで三年間、絵を描いていたそうだ。

ヒジョンが自分のスケッチブックを先生に見せると、かなり才能があると褒められたらしい。

そんなことは誰だって知ってるのに、今さら何を。

ヒジョンは今度の春休みからアトリエに通うことにした。

芸術高校や美大へ行くかどうかは別として、ここで暇を見つけて絵を描いてみたいそうだ。

うわあ、いいな。

それならヒジョンが絵を描いているあいだ、僕は父さんの作業部屋で文章を書こう。

僕だって毎日数学の問題ばかり解いて暮らすわけにはいかないじゃないか。

僕の最初の作品の題材に、世界平和はどうだろう?

これはちょっと重すぎる気がする。

じゃあ軽い題材にしようか?

雲なら軽くていい。

でも雲について、いったい何を書けというのだ?

ウサギ雲、入道雲、ひつじ雲。

これも違う。

何を書こう……。

ああ!

作品の題材を探しているうちに、年を取って死んでしまう!

次は僕の最初の作品だ。

僕に大きな気づきを与えた出来事について、自分の考えをまとめてみた。

― 僕の友だちシシナおじさんとドンワン ―

大人は子どもより賢いのだろうか?

大人たちは、

「お前も大きくなれば分かる」

と言う。

これは本当なのだろうか?

それなら経験の多い人は、経験のない人より賢いのだろうか?

人は年を取れば、知恵がついて賢くなるという。

でも、必ずしもそうではない気がする。

年齢と知恵が正比例するのなら、僕たちの暮らす世界は正義に満ちた幸せな場所でなければならない。

ところが僕のまわりを見渡すと、幸せな人も多いけれど、そうでない人はもっと多い。

スリランカから来たシシナおじさんを見ると、おじさんは韓国で不当な扱いを受けているように思う。

それは、おじさんの肌の色が僕たちより黒いというだけの理由だ。

おじさんは格好いいし、知っていることも多いし、ユーモアも豊かだ。

でも人々は、そんなところには注目しない。

おじさんが地下鉄に乗ると、人々はおじさんを避けるそうだ。

ただ肌の色が黒いという理由だけで差別するのだ。

シシナおじさんや、おじさんの国スリランカについて何も知らないくせに。

うちのクラスのドンワンは、勉強もできるし運動もできる。

今でも友だちのあいだでは人気があるけれど、前ほどではない。

なぜなら、ドンワンが学級委員長選挙に出たからだ。

ドンワンのお母さんはモンゴル出身だ。

そのせいで一時、うちのクラスの子たちはドンワンをモンゴカンジャンとからかった。

子どもたちの心のどこかに、ドンワンはシシナおじさんと同じように一段下なのだ、という考えがあるように思う。

ドンワンと友だちになること自体は大して問題ではない。

でも、あいつを学級委員長としては絶対に認めたくないらしい。

これを見ると、大人と子どもには何の違いもない。

僕の考えでは、人が人を差別することにおいて、年齢は何の基準にもならないようだ。

祖父は、人間の悪がひとたび根を下ろすと、あっという間に地球全体を覆ってしまったと言った。

だから僕は、もっと怖い。

これは変わらないだろうからだ。

人は経験によって賢くなるというけれど、僕の考えでは、経験そのものは大したものではない気がする。

年を取れば経験も増えるはずなのに、年を取ったからといって賢いわけではないからだ。

それなら、いったい何が人を賢くするのだろう?

僕の一日は、いろいろな経験の連続だ。

僕はまだ学生で子どもだから、同じことの繰り返しより、新しい経験のほうが多い。

そんなたくさんの経験の中で、特に記憶に残っているものがある。

一つは『ヘイ、ウェイト……』という禁書事件で、もう一つはパリで僕を救急外来まで親切に連れていってくれたアラブ人のおじさんの記憶だ。

いろいろな経験の中で、これは僕の頭の奥深くに刻み込まれている。

もしかしたら、経験そのものより大切なのは、その経験をどう受け止めるかということなのかもしれない。

この文章を書くために、午後いっぱい頭がずきずきした。

どうやら数学の問題でも解いて、頭を休めたほうがよさそうだ。

春休みが始まった。

お願いだから来年からは、冬休みと春休みのあいだに学校へ行かせる制度をなくしてほしい。

遊ぶときは遊ばなければならないのに、こうして途中で学校へ行くと気が抜ける。

これはまるで、ごはんを食べている途中でトイレへ行って、また食卓に戻ってくるような気分だ。

こういうことこそ、大統領が直接出てきて解決してくれないのだろうか?

終業式が終わってから、久しぶりにヒジョンの家へ遊びに行った。

ヒジョンのお兄さんは美術館へ行ったのか、家にはいなかった。

僕はヒジョンに、自分の書いた文章を見せた。

ヒジョンは僕の文章を読むと、格調のある大胆な文章だと褒めてくれた。

「ところで、ヘイ、ウェイトって何?」

「それ? 漫画なんだけど、うちでは禁書なんだ」

「禁書? 何それ?」

「うん。父さんが高校へ行くまでは読むなって言ってる本なんだ。まだ読む時期じゃないって」

「それで?」

ヒジョンが好奇心いっぱいの目で聞いた。

「僕がその変な本をこっそり読んで、ちょっと魂が抜けたんだ。本当に変な本だった。悲しいし、心が空っぽになったような感じもした」

僕は首を横に振った。

「私にも見せて」

ヒジョンが僕のほうへ近づきながら言った。

「駄目。書棚の鍵がない」

「鍵がなくても開ける方法、知ってるでしょ?」

「……」

僕は何も言わなかった。

胸がどきどきした。

「ビョク、私たち、あなたの家に遊びに行こう!」

ヒジョンがソファから勢いよく立ち上がって言った。

ああ!

神よ、なぜ僕にこんな罰をお与えになるのですか?

家へ帰ると、叔父さんが父さんの漫画を全部借りていったという。

もちろん『ヘイ、ウェイト……』も含まれている。

どうやら叔父さんの帰国は、神の御心だったようだ。

僕が善意で書いた文章が、どうしてこんなとんでもない結果を引き起こすのだろう?

ジェイミーおじさんは、ついに来週の金曜日から三泊四日でボストン旅行へ行く。

僕はもう一度、はっきりと、

「Bon Voyage!」

と言ってあげた。

おじさんは旅行先で、たくさん絵を描いてくると言った。

楽しい旅行になればいい。

ジョンス叔母さんの家で授業を終え、ヒジョンと教保文庫へ行った。

ヒジョンのお兄さんにあげるプレゼントを買うためだ。

ヒジョンがお兄さんに聞いてみたところ、

「ビョクがプレゼントを選びたいなら、安部公房の『砂の女』にしろって言って」

と言ったらしい。

僕がプレゼントをしたくてたまらないわけでもないのに、兄ちゃんは何か勘違いしている。

僕たちが本を選んで会計をしようとすると、レジのお姉さんが、子どもがどうしてこんな本を読むの、と聞いた。

するとヒジョンが、大学へ入るお兄さんへのプレゼントだと答えた。

お姉さんは、

「あなたたちが読む本じゃないわよ」

と言って、本を渡してくれた。

ヒジョンはバスに乗って帰るあいだ、ずっとその本を読んでいた。

人のことを思って言った言葉が、どうしてときどき人に害を与えるのだろう?

昨夜のソッキ兄ちゃんの大学合格パーティーは、午前1時になってようやく終わった。

ところが主役のソッキ兄ちゃんは、ごはんだけ食べると、

「『砂の女』を読む」

と言って自分の部屋へ入り、それきり出てこなかった。

プレゼントが効いたようだ。

母さんと父さんは今日は寝坊だ。

疲れているのも当然だ。

昨日遅くまで酒を飲んで遊んでいたからだ。

僕は朝早く起きて祖父の家へ行った。

叔父さんは父さんから借りてきた漫画を、あちこちに散らかしていた。

僕は叔父さんに隠れて『ヘイ、ウェイト……』を探した。

ところが、この本だけが見当たらない。

叔父さんがお尻の下に敷いていたのだ。

僕は叔父さんを横へ押しながら、本をそっと引っぱった。

うっ!

表紙が少し破れた。

僕は本を持ってヒジョンのところへ行った。

ところがヒジョンは、もう『ヘイ、ウェイト……』を読んだという。

昨日、僕が書店で『砂の女』を探しているあいだに、自分で先に『ヘイ、ウェイト……』を一冊買って、鞄に入れておいたらしい。

イブにやられたアダムの気持ちは、きっとこんなものだったのだろう!

朝早く起きて祖父の家へ行った。

僕は『ヘイ、ウェイト……』を叔父さんの部屋へこっそり戻そうとして、叔父さんに見つかってしまった。

「ビョク、お前があの本を持っていったんだな? ずいぶん探したよ」

「はい。ごめんなさい」

僕は胸がどきどきした。

「俺、あの本あんまり面白くなかったな」

「え?」

僕は驚いて叔父さんを見た。

「人生なんて、みんなあんなもんだろ」

今日、世の中には二種類の人間がいることを知った。

「父さん型」と「叔父さん型」!

どうやらヒジョンは「叔父さん型」に近いようだ。

『ヘイ、ウェイト……』を読んでも、心理的な動揺がない。

ハンガーストライキも辞さないタイプだからなのか?

それとも、ハンガーストライキを宣言しておきながら、陰でこっそりチョコパイを食べるタイプだからなのか?

とにかく僕とは少し違うようだ。

父さんが母さんに、ズボンのウエストを少し広げたいと言って叱られた。

数日前から、ズボンを履くことはできるけれど、ズボンを履いたままではごはんが食べられないというのだ。

母さんは、父さんが作業を口実に生活の規則を破るのが嫌だと言った。

実際、最近の父さんはほとんど運動もせず、作業部屋に閉じこもっている。

しかも夜になるたび、きっちり夜食まで食べる。

母さんが何度か注意したけれど、父さんは、

「分かった、分かった」

と答えるだけで、何一つ変わらなかった。

それでとうとう、ズボンのウエストを広げると言い出したのだ。

父さんの新年計画の一つが、もう無残に破られてしまった。

むやみに食べ続ければ、豚になるのは免れない。

ジョングのお母さんとお父さんが、離婚することにしたそうだ。

今朝、ドンワンが興奮して電話で知らせてくれた。

ジョングはお母さんと暮らすことにしたので、これからはお兄さんとも一緒に暮らせる。

その代わり、お母さんの住んでいる近くの学校へ転校しなければならない。

でもジョングが喜んでいると聞いて、安心した。

なぜか心の片隅が、少しぽっかりした。

結局、今日、父さんはズボン三本のウエストを、それぞれ2インチずつ広げた。

ごはんを食べるたび、食卓の前で父さんがズボンのボタンを外す姿を母さんがどうしても我慢できず、とうとう諦めたのだ。

修繕代は父さんのお小遣いから引くことになった。

父さんは高い修繕代など気にもせず、

「これでやっとまともに息ができる」

と言って喜んでいる。

直した服を受け取ってきた父さんは、もうお腹に力を入れない。

オタマジャクシみたいに、お腹だけぽこんと飛び出すようになったら困るんだけど……。

ジョンス叔母さんの家で勉強を終え、ヒジョンとアトリエへ行った。

ヒジョンはスケッチブックにヨンとビョンを描いていた。

僕は不安になった。

アトリエを出ると、ヒジョンはヨンとビョンのことを考えると頭が痛いと言った。

そして僕にもたれかかり、涙を流した。

僕はヒジョンをぎゅっと抱きしめた。

それから、父さんが僕に言ってくれた言葉をヒジョンにも言った。

「ヒジョン、今はいいものだけを見る時期なんだって。きれいで、美しいものだけ。どうせ大きくなれば全部分かるんだって。急がないでおこう。ヨンとビョンのことは、もう忘れよう。ごめん」

ヒジョンは僕の肩に顔を埋めて泣きながら、うなずいた。

ヒジョンと僕はジェイソンの『ヘイ、ウェイト……』を厚いビニール袋に入れ、うちの花壇に埋めた。

バドゥギは僕たちが何か骨でも埋めていると思ったのか、尻尾を振りながら前足で掘り返そうとした。

だからバドゥギに一言、言ってやらずにはいられなかった。

「バドゥギ、今はいいものだけを見る時期なんだ。きれいで、美しいものだけ。お前も大きくなれば分かるけど、急ぐ必要はないんだ。ヨンとビョンは、お前にはまだ早い!」

ヒジョンが僕の言葉を聞いて、けらけら笑った。

僕も笑った。

また笑いが僕たちのところへ戻ってきた。

ソッキ兄ちゃんについて、ヒジョンと一緒にソウル歴史博物館へ行ってきた。

展示スペースは広くてよかったけれど、展示品があまりにも少なくてがっかりした。

兄ちゃんは、日本統治時代に全部略奪されて、韓国に残っている文化財があまりにも少ないのだと言った。

返してもらわなければならないけれど、それが簡単ではないそうだ。

ヒジョンの家族は、ヒジョンのお母さんの影響なのか、日本に対してあまりいい感情を持っていないようだ。

でも、間違ったことを言っているわけでもないじゃないか?

兄ちゃんは博物館を出ると、僕たちを素敵なカフェへ連れていった。

美術を専攻する人だからなのか、カフェも雰囲気のいいところばかり探すらしい。

ところがコーヒーの味は、本当にひどかった。

とにかく兄ちゃんは、もう大学に入るのだから、思いきり遊ぶと言った。

この三年間、学校とアトリエを往復するだけだったけれど、これからは解放だという。

大学生になったら韓国一周もするし、リュック一つだけ背負ってヨーロッパ旅行にも行くそうだ。

もちろん中国と日本にも行くと言った。

当然、アメリカへ行く計画もあるらしい。

僕は母さんの旅行会社のパンフレットを、兄ちゃんに持ってきてあげることにした。

うちの母さんは金持ちになる。

ヒジョンがアトリエに行っているあいだ、僕はとても短い文章を一つ書いた。

― ヘイ、ウェイト…… ―

バスに乗って家へ帰る途中だった。

窓の外に突然、雨粒が落ちてくる。

人々は急いで雨を避け、身を隠す。

雨脚があまりにも激しく、車まで道路脇に止まる。

バスの運転手も車を止め、雨がやむのを待つ。

予告もなく降り始めた雨が、街に戒厳令を宣言した。

バイクに乗っていた人が一人、電話ボックスへ入る。

電話ボックスが白く曇る。

ヘルメットをかぶった男が曇りに埋もれ、消えていく。

侵略のように雨が降った日、街は無残に占領された。

バスの中まで曇り始め、僕たちは霧に包まれた。

アトリエから出てきたヒジョンに、この文章を見せた。

ヒジョンは、見慣れない感じのする変な文章だと言った。

僕はヒジョンのその言葉が気に入った。

本当は、ヒジョンの言葉なら何でも好きだ。

叔父さんが引っ越した。

祖父の家を出て、小さなオフィステルへ移った。

叔父さんは誰かに束縛されることを、とても嫌う。

どうやって会社勤めをしているのか分からない。

叔父さんの引っ越し荷物は本当にバッグ一つだけなので、特に引っ越しと呼ぶほどのこともない。

ここでしばらく暮らしたあと、叔父さんは自分の家へ戻るそうだ。

叔父さんは北京駐在員として赴任するとき、それまで住んでいたマンションを賃貸に出した。

その契約が今年の年末にならないと終わらないらしい。

叔父さんは、小さくても自分の家で暮らすのがいちばんいいと言った。

それは誰だってそうじゃないか?

僕も大人になったら、自分の家でヒジョンと二人きりで暮らしたい。

午前中に保育園のボランティアを終え、午後いっぱいジョンス叔母さんに出された数学の宿題をした。

叔母さんが出した数学の問題を見ると、父さんが驚いた。

当然だ。

父さんは足し算と引き算くらいしか、かろうじて分からないのだから。

数学放棄生の両親から僕のような数学の天才が生まれたのは、すべてジョンス叔母さんの涙ぐましい努力のおかげだ。

夕方、父さんの本棚から『ライ麦畑でつかまえて』を取り出して読んだ。

口を開けば嘘ばかりつく、変なやつが主人公として出てくる。

どうして父さんはこの本を三冊も持っているのだろう?

ソッキ兄ちゃんに母さんの旅行会社のパンフレットを渡すため、ヒジョンの家へ寄った。

兄ちゃんはパンフレットを受け取ると、最初のページから丁寧に読み始めた。

兄ちゃんは何をしても、本当に几帳面だ。

僕はヒジョンに、どうしてうちには『ライ麦畑でつかまえて』が三冊もあるのか分からない、と言った。

するとソッキ兄ちゃんが恐ろしいことを言った。

「ジョン・レノン、知ってるだろ? ビートルズのメンバーだった歌手」

「うん、知ってる」

「ジョン・レノンを殺したのがマーク・チャップマンだよ」

兄ちゃんは旅行のパンフレットを読みながら、話を続けた。

「それで、そいつがジョン・レノンを殺したあと、みんな『ライ麦畑でつかまえて』を読むべきだって言ったらしい」

「本当?」

「ちょっとぶっ飛んだ本ではあるよ。でも、お前の家にはどうして三冊もあるんだ?」

ああ、大変だ。

父さんに何か起きていないか、調べなければならない。

叔父さんが仕事帰りにうちへ寄った。

うちに預けてある本を持っていくと言って、父さんの本棚から自分の本を選び出した。

ざっと見ても二百冊くらいはありそうだった。

『ライ麦畑でつかまえて』は三冊とも、叔父さんが持っていった。

僕の部屋にある一冊も、叔父さんに渡した。

叔父さんは三冊の本を全部、大切そうに箱へ入れた。

僕が叔父さんに、どうして『ライ麦畑でつかまえて』を三冊も持っているのかと聞くと、叔父さんは何も言わず、ふっと笑って僕の頭を一度なでただけだった。

どんな事情があるのだろう?

朝ごはんを食べながら、母さんに、どうして叔父さんは『ライ麦畑でつかまえて』を三冊も持っているのかと聞いた。

母さんはしばらく僕を見てから、父さんをちらりと見た。

「あれはお前の叔母さんの形見なんだ。叔母さんがあの本を好きだったらしい」

父さんが僕に言った。

「……」

僕はそれ以上、何も言わなかった。

黙ってごはんを食べ、ジョンス叔母さんの家へ勉強しに行った。

ジョンス叔母さんと勉強しているあいだじゅう、叔父さんがふっと笑った顔が頭から離れなかった。

僕は幼すぎたし、昔のことだからなのか、叔母さんについて何一つ覚えていない。

叔父さんが本当に、どうしようもないほど叔母さんを愛していたということだけは聞いて知っている。

うちでは叔父さんの前で、恋人や再婚の話を絶対にしてはいけない。

このことについて僕は、耳にたこができるほど教え込まれてきた。

昨日、叔父さんに余計なことを聞いてしまった。

ごめんなさい、叔父さん。

昨夜は一睡もできず、死について考えた。

どうしてすべてのものには、始まりと終わりがあるのだろう?

始まりは終わりだとも言うし、終わりはまた別の始まりだとも言う。

これはいったい、どういう意味なのだろう?

シシナおじさんが引き取った四匹の猫は、バドゥギがいなければ、あの寒い排水口の中で死んでいたかもしれない。

それなのに、どんな縁があって死なずに生き延び、今はシシナおじさんの工場でかわいがられて暮らしているのだろう?

僕たちの人生で、大きなこととは何だろう?

そして、小さなこととは何だろう?

大きなことはクラスで1位になることで、小さなことは数学の試験で100点を取ることなのだろうか?

それとも大きなことは金持ちになったり、名誉ある人間になったりすることで、小さなことはスーパーで買い物をするときに牛乳を買い忘れないことなのだろうか?

大きなことと小さなことには、どんな違いがあるのだろう?

もしかしたら、そこには何の違いもないのではないだろうか?

ときどき、気が狂いそうなくらい繰り返される毎日が退屈になることがある。

この退屈がずっと続くことが、死なのだろうか?

それとも、それが生きるということなのだろうか?

もしそれが生きることなら、年を取って力がなくなり、体がだんだん痛くなっていくことが死なのだろうか?

僕がこんなことを考えていると母さんや父さんが知ったら、何と言うだろう?

ヒジョンも、こんなことを考えるのだろうか?

ドンワンやジョングも、生と死について一度くらい考えたことがあるのだろうか?

もし天国があるのなら、叔母さんがそこで幸せでありますように。

父さんが長編小説を書き上げた。

うわあ!

すごい。

父さんは僕に、好きだから書き始めたし、書いているあいだ幸せだったと言った。

父さんは今日は完成祝いに友だちと一杯やると言って、夕方早くから出かける準備をしている。

どんな小説なんだろう?

今年の2月は28日までしかない。

うるう年だろうが何だろうが関係なく、2月にはいつも31日まであればどんなにいいだろう。

そうすれば春休みが三日も長くなるのに……。

ヒジョンと漢江へ自転車に乗りに出かけた。

涼しい川風を受けながら、銅雀大橋の下まで走った。

僕たちは自転車を止めて歩いた。

ヒジョンが僕に、

「ありがとう」

と言った。

僕の口がするすると耳まで上がった。

僕もヒジョンに、

「僕もありがとう」

と言った。

ヒジョンが笑う。

僕もつられて笑う。

僕たちは一緒に笑いながら、自転車が爪ほど小さく見えるまで、歩いて、また歩いた。

― 終わり ―